日本は山の宝庫である。日本山名総覧によれば、約18000もの山の名前を確認できる。 一日に平均一座登頂すると仮定して、約50年を必要とする。
これだけ膨大な数の山々があると、名山リストのようなプリセットされた選択肢群が発生するのも、気持ちとしては分からなくはない(賛否両論あって、積極的に名山リストを肯定することはできない)。
先人たちが残してくれた情報をもとに、山を楽しまないのは損ではないかという気さえしてしまう。
低山のすすめでは、数ある山々のうち、低山の条件を満たす名山を通して、山の楽しみを広く伝えることを試みたい。
低山をすすめるにあたり、そもそも低山の定義とは何かを考えなければならない。
日本百低山には、低山とは昔から人々の生活圏にあった山で、里山のことを指し、日帰りであるける山で、特別な記述を必要とせず、人並みの体力があれば登頂できる山と定義している。
また、日本百低山では、名山の条件についても言及があり、知名度が高いことや、ストーリー性があることなどを低山かつ名山の条件としてる。
なぜ低山がおすすめなのか。背の高い山ではいけないのだろうか。
背の高い山には、体力を必要とする山、技術を必要とする山、経験を必要とする山、相応の装備を必要とする山など、登頂にあたって満たさなければならない条件が多い。
装備はお金で買うことができるし、経験は続けていれば蓄積される。
されど、体力や技術は、一朝一夕には身に付かない。技術はこつこつと蓄積できるが、体力は年齢とともに落ちていく。
体力だけではない。年齢とともに体にはガタがくる。故障によって歩けなくなる日が来るかもしれないし、怪我や故障と上手に付き合っていかなければならない日が来るかもしれない。
背の高い山は、万人にとって楽しめる山であるとは限らないわけだ。
また、こうも考えることができる。標高が高くないと山の楽しみがなくなるのだろうか。背の高い山だけが名山なのだろうか。
決してそのようなことはない。背の高い山には背の高い山の楽しみがあり、低山には低山の楽しみがあるだけのことだ。
山の楽しみに、背の高い山も低山もないというのなら、高齢の人でも、怪我や故障を抱えた人でも、経験の浅い人でも、技術が少ない人でも、おおよそ誰もが楽しむ事のできる低山をすすめるのが道理というものではなかろうか。
低山のすすめが、ウェブサイトを通じて、誰もが低山を楽しむことができるよう、情報を発信し、低山を積極的にすすめているのは、そういった理由からである。
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